羨ましく思う気持ち
最近嫁が必死にスマホを調べている
自分のスマホではなく、田舎にいる母親のスマホを買ってあげたのだ
ガラケーからスマホに変わった時僕らも苦戦した
年老いた母親が使えるだろうかと日々頭を悩ませながら使い方や設定を模索している嫁を見ていると少し羨ましく思う
僕の父親はスマホが普及する前に亡くなったし母親も耳に障害があった為電話連絡は全てヘルパーさんとしていた
親が使うスマホを買ってせっせと設定している嫁の姿は僕から見るととても親孝行な娘に見える
世間的には当たり前の事かもしれないが、親の為に何かをした事がない自分にとってはとても尊敬すべき行動である
生きてるうちに何も出来なかったダメ息子だった自分から見て、僕の周りにいる人達は皆親孝行で本当に尊敬するしそんな人達が周りにいてくれるから自分も親の有り難みを考え直す事が出来たかもしれない
親にはなんにも出来なかったけど
その分僕の描く作品には頻繁に登場してくるから
それで許しておくれ
僕が天寿を全うしたらDVD全部持ってそっちに行くからな~✌️
頭でっかちにだけはなりたくない
監督の名前、演出家の名前、作品の由来、文学、アカデミー賞、トニー賞、カメラワーク、舞台用語、尺貫法、
それらを知るのは大切
知らないよりは知った方がより現場でスムーズにコミュニケーションが取れる
自分の好きな物をより好きになれたり好奇心が膨らむ、だから知る事は大事
間違えないで欲しいのは
知ってるから偉い、知ってるから凄い、知ってるからイケてる
そんな痛い人になる位ならむしろ知らないで欲しい
世界の違いはとても楽しかったりする
えげつない教えられ方をした
中学高校と部活でめちゃくちゃ不合理な筋トレとかをさせられた、顧問は常に竹刀か短い木刀を持ってて『たるんでる』という理由でバチバチにしばかれる
それが当たり前の世界線
血反吐を吐いて練習すればインターハイで結果が出る!という謎の精神論で体罰も暴言も当たり前の環境で育った自分
正直言って
『訴えたい』
という気持ちが今もある、自分が教わった筋トレとか基礎練習が20年後『やったらいけない筋トレ』にラインナップされていた時に本当に当時の顧問や先輩らを訴えたい気持ちになった
それが自分の育った環境であり時代であり世界線だったと納得して、それでも怪我一つなく健康に46歳まで走れた自分のポテンシャルを褒めるという行為で気持ちを収めた
まあ、ジャッキーチェンも映画で凄い練習して酔拳や蛇拳をマスターしてたし、そんな時代だったんだから仕方ない
僕はこの10数年芸能の教育の場にいて指導を担当していたりもするが、やはり年代というか時代の流れで若い子らの思想や姿勢は変わって来ているのが非常によくわかる、コロナ禍もありそれは如実に変わって来ている
やはり効率の良さが求められる
昔は精神論で突き進んでた部分も今は合理性、効率の良さ、分かりやすさ、が真っ先に求められる時代になった
具体性という物を非常に求められる
そもそも俳優という仕事は人間を演じる仕事であり、人間なんてものが一番複雑怪奇で具体的でもなく一貫性もない癖に知識とプライドがある謎の生き物なわけで、それを演じるのに具体的なマニュアルなんてあるわけがないしマニュアル通り演じたらそれは嘘になってしまう
それを踏まえて具体的に指導していくのに相当足りない頭とボキャブラリーを使った笑
良いこともある
昔だったら聞けない様なことも今は聞いてくる、僕個人的には、分からない事があればすぐに聞く!
という姿勢は一番大事であり一番必要だと思ってる
昔
現場で
そんなもん聞く前に自分で考えてやれ!!
そう言われたから
考えて自分でやったらスッゲー怒られた、
責任者に謝ってこいと言われた
納得行かなかった
やれと言ったのはその人なんだから例え僕がどれだけアホな失敗してもやらせたその人が責任を取って謝るべきだ!と思ったから謝りに行かなかった
更にめたくそ怒られた
じゃあ最初から説明しろよ!わからないから正直に聞いたのに、僕が理解するまで教えろよ!その上で失敗したら僕が全部悪いと認められるし反省も出来るのに
格好つけて『自分で考えてやれ』なんてただの投げっぱなしな放置じゃないか!説明の責任を放棄したくせに失敗したら怒鳴るのか?
なんて事を思うだけなら良かったが僕は口に出してしまったから現場は最悪な空気になってしまったのは若かりし思い出😆💦
今の若い子らはちゃんと聞いてくる
分からなかったら何度も聞けば良い
状況は変わるわけだから逐一聞いて確実に理解していけば良い
指導者や先輩は何度でも聞いて良いんだ~という雰囲気を常に作る事に重きを置くべきだと思う
世界は変わっている、僕らが育った昭和から平成初期とは全然違う、努力と根性論が認められ職人カタギの無愛想なおっさんが選ばれていた時代とは今は違う
かといってその時代に存在した良い部分を好きな子達も沢山いる
悪い部分を取り除き、古き良き部分や支え合いはしっかり残した上で新しい環境に身を投じるのが我々昭和後期に生まれ育った人間の役割なんじゃなかろうかと
そんな事を思う今日この頃である。
ネコ脱出9月の演劇祭りが終わり10月に向かいます
座長芝居いよいよ始まります
嫌な予感が当たり続けて1年半
『なんかそろそろ台風とか地震とか来そうだなぁ~~』
って思ってたら
当たった!!!!
なんだかなぁ~
もうず~~~っとだ
嫌な予感
『あ~これ、こうなったら嫌だな~』
と思った事の9割以上この一年そうなってきた
一番最初にその予感が当たったのは昨年の小劇場クラスターが起きた時だったな
前に進む為に
ちゃんと人間の人生を生きてる?
ちゃんと人間の人生を生きてる?
人間を演じてる役者の自分を演じて気持ちよくなってない?
役の人生を生きてるフリをしてない?
と
昔ダメだしされた事がありここ20年間ずっと自分のテーマにも目標にもなってる言葉、いまだに正解にたどり着けず目指してる真っ最中
大体同じキャリアで同年代の役者と芝居の話をするとここに行きつく
稽古とはなんだろうと思う時がある
段取り、手順、順序、方向性、はすぐに全て付けれる
出来る役者なら一日でそれら全てコンプする
じゃあ稽古期間とは?
その先の可能性を模索する時間であり作家や演出が想像し得なかった作品の可能性を広げる時間である
と個人的には思う
役者が付けられた段取りを反芻する時間というのは正直稽古ではなく自主練の範疇であると思う
演出とキャストが揃うシーン稽古では更に高みに挑む為の発想のだしあいでなければ
これからは歩んで行けない様な気がする
コロナ禍によりまた稽古場の使用時間が削られた
全員揃って稽古するのも危険だから直前まで全員揃っての稽古はしない
けど目標地点のハードルは下げない
肩の力は抜きつつ、人様の人生を演じてる商売だからこそ
色々考えて行きたい